
代表 赤澤 清孝(ユースビジョン 代表)
ボランティア活動や病院でのアルバイトを通じて、幸運にも社会の中で学ぶの楽しさを知ってしまった私は「学生を大学の外に連れ出したい」という思いを漠然と抱いていた。
そんな時に起こった阪神・淡路大震災。地震の衝撃も大きかったけれど、それより何より自分と同じ学生たち、若者たちがボランティアとしてイキイキと活動している姿に大きな衝撃を受けた。
きょうと学生ボランティアセンターを学生有志で設立したのは、その翌年。震災を経て目覚めた「社会に参加したい」「社会をよりよくしたい」という若者の熱意が発揮できる仕組みをつくりたいと強く思った。
あれから十年。若者のボランタリーな活動のスタイルも変化した。ボランティア活動が唯一ではなく、NPOやNGOへのインターンシップやソーシャルビジネスの起業など若者が社会で活躍するため機会は大きく広がった。そして、学生時代の活動を経て、NPOの世界でプロとして活躍する若者も、少しずつ増えて来ている。これは本当に大きな変化だと思う。そして、その変化の一端を我々の組織も担ってこれたと確信している。この十年の活動の成果として誇りにしたい。
こうした時代の変化を踏まえて、我々は組織名を、"ユースビジョン"と改めた。「きょうと」も「学生」も「ボランティア」も名前からは消えた。
これからは、学生はもちろん、若いNPOスタッフ、社会起業家をめざす若者など、若者たちが社会変革の担い手として、大きなビジョンを描いて活躍できるよう、様々な応援の機会をつくりたい。そしてこの人づくり、社会づくりの流れを京都から全国に広げていきたいと思う。
最後に、若者たちの奔放な活動を、あたたかく受け止め、励ましてくれた多くの人生の先輩たちの応援なしに、今日はなかったと思う。感謝します。
みなさん、これからもますますご参加、ご支援よろしくお願いたします。一緒に新しい社会を創っていきましょう!
("きょうと学生ボランティアセンター"から"ユースビジョン"へ「ユースビジョン10周年誌( 2005年発行)」より)
理事 池田 英郎(塔南の園児童館 児童厚生員)
「ボランティアの受け入れ施設の人と一緒に事業を考えたい」そんな思いを受けて、私が理事を引き受けさせて頂いたのが4年前。その時、「社会の中にある様々な課題を知り、その解決に向けて自ら行動する若き市民を育てる」というミッションに「そうそう、そうやねん!」と強く共感し、受け入れ施設としての立場で、理事の末席に加わらせて頂くことになりました。
理事としての関わり以前のきょうと学生ボランティアセンターとの関わりも、私にとって重要なものでした。施設においてボランティア受け入れの仕組みを作っていこうとしていた時、学ボラを通じて多くの学生が我々の現場に参加してくれました。そして、共に多くの活動を作り出すことが出来るようになりました。解決に向けてなかなか踏み切れないような課題があっても、学生のボランティアスタッフと共に苦しくも楽しく乗り越えていき、その仕組みは、現場の雰囲気や我々の仕事のスタイルにも大きな変化を与えました。
それから数年が過ぎ、社会の状況、ボランティアや市民活動をめぐる状況も急速に変化していったように感じます。様々な機関を通じて情報を発信できるようになり、我々の現場へ参加して頂く人の数も飛躍的に増加しました。しかし、ボランティアの受け入れが発展し、ボランティア活動に多くの参加を得ていく一方で、私には「果たしてどれだけの『若き市民』を生み出せているのだろうか?」という問いが生じてきました。子ども達の育ちをめぐる課題も増大する中、「活動に参加する」ということだけでなく、その解決に向けて共に議論し、行動しようとする若者をどれだけ生み出せているのか?ということが問われてきていると感じたのでした。
そういった状況の中で私はユースビジョンのミッションに強く共感し、現在もその強い共感を持ち続けています。10周年の節目を迎えた今、共感だけでなく、共により良い社会を創っていく為に、確かなビジョンと方向性を持って、理事としての責任を果たさねば!と感じています。
(10周年に寄せて〜受け入れ施設より〜「ユースビジョン10周年誌( 2005年発行)」より)
理事 志藤 修史(大谷大学教員)
阪神淡路大震災という巨大なエネルギーは、形ある都市などの構造物を破壊するとともに、人々のくらしが脆弱な基盤の上に立っていることを、多くの犠牲のもと、文字どおり「揺さぶり出し」ました。同時に、若者を中心とする多くの市民の「何か」にインパクトを与え、社会的な行動化を、これまた「揺さぶり出した」のではないかと思います。
1996年の立ち上げ当初の「きょうと学生ボランティアセンター」のスタッフには、この震災世代の若者が作り出す、一種アグレッシブな雰囲気を強く感じていました。一方でIT機器をいとも簡単に活用する世代でもあり、どんどんとネットワークを拡大していくパワーも持ち合わせていました。個への固執と社会への諦観にも縛られず、しなやかささえ感じられるのです。そこでは、どん欲に学びとろうとする世代自身が、ともに学べることの楽しさや喜びを雄弁に語っていたのです。カルチャーショックでした。「何かが変わった」と感じました。同時に私の中に、これからの社会への期待と希望、喜びがわき出したのです。いつの時代でも未来を力強く指し示すのは、若者が抱える展望と、それへの期待です。10年前の閉塞感ただよう状況の中、彼らとの出会いは私自身の力となりました。
それから10年がたちました、2005年11月には団体の名称変更をしました。今回使用した「Vision」は周知のように、「展望」という意味です。私自身にとっては1996年の出会いを彷彿とさせる言葉なので気に入っています。しかし、気をつけなければならないことは、この「Vision」には「まぼろし」や「幻影」という意味もあることです。若者の展望や若者への期待が、単なる幻に終わっては意味がありません。10年前に受けた喜ぶべきショックを、さらに発展させ、具体化するため、多くの若者と学びを通じながら、展望を共有できるようなことをしてみたいと考えています。
(10周年に寄せて〜出会いとショック、学びと展望〜「ユースビジョン10周年誌( 2005年発行)」より)
理事 芝原 浩美(ユースビジョン 事務局長)
「何のために学生にボランティア活動を紹介するのか?」
「ボランティア活動をする学生を増やすことが私たちのゴール?」
この問いは、私がセンターに深く関わるようになった2年目ごろにぶつかり、答えを探し出そうと必死になった問いだ。この体験は当時の私とって衝撃的だった。それ以来、私はボランティアコーディネーションの「先」にあるものを追い求めるようになった。
学生がボランティア活動をすると出会う、さまざまな出来事や信じられない現実。それらにどう立ち向かうのか。第三者だからと見過ごすこともできる。なんとかしようと考えることもできる。そして、解決のために行動することもできる。そんな人たちが、1人、2人、10人、100人と増えていけば、社会は少しずつでも確実に変わっていく。非力だと思いこんでいた若者にも、社会を変える力がある。私たちも社会を創っている一員なのだ。
そんな思いが単なる幻想から確信に変わったのは、確か、ミッションの再定義をした2000年の頃。そこからは、確かな思いを手に、迷いながら悩みながらも駆け抜けてきたように思う。
さて、この10年の間「若手」と呼ばれてきた私(たち)ももうすぐ30代。そろそろ、私たちの次の世代を迎える頃だ。私たちが、周りの大人たちから教わり、刺激を受けたように、次へバトンタッチしていかなければならない。
思いを共有するみなさんと共に、「ユースビジョン」という場を使って、魅力的な取り組みを生み出せることに今からとてもワクワクしている。
理事 水野 篤夫((財)京都ユースホステル協会統括部長/(財)京都市ユースサービス協会事業コーディネーター)
学生ボランティアセンターができて10年の間に“ボランティア”という言葉、NPOという言葉も急速に広がって、学生によるボランティアセンターというコンセプトも他に譲ってもいいようになってきたといえる。その意味で、活動の停滞期を越えて学ボラが今一度歩き出そうとした時に、名前を変えたことは必然だった訳だ。しかし、これまで学ボラが市民活動・公益活動に携わる人材を育ててきたことを、どう捉えるのか、その力はどこから来ているのか、名称やコンセプトの見直しをした時に議論したことを思い出す。
学生がボランティア活動などを体験することで学んでいくことは、もはや当たり前とされるが、それ以上に、人は集団の中で学び、自分がその集団・組織に深く関わっていく過程でこそ学んでいくのだと思う(正統的周辺参加!)。単にボランティア体験をするだけで学ぶことは多くはないかもしれないが、活動を自らの課題として捉えて、悩み、迷い、葛藤する中でこそ学べることは多いのであろう。これからユースビジョンが目指す活動は、世の中に広がった、ボランティア体験の場を超えた、若者が“自らの責任において”活動する場と機会を作っていくことといえるだろう。
そのことを通して、公共圏の担い手を育てていくユニークなNPOを目指したいと思うし、もう若くなんてない理事の一人として、若い担い手に上手に乗り越えられる存在か、さもなくばとても嫌みなおっさんとして関わっていきたいと思うところである。
(10周年に寄せて〜学ボラからユースビジョンへ〜「ユースビジョン10周年誌( 2005年発行)」より)